道徳を真正面から論じる『これからの「正義」の話をしよう』著:マイケル・サンデル

書籍レビュー

本書の概要

 ハーバード大学の哲学教授・サンデルが、様々なテーマに対し、歴代の哲学者や思想の視点を用いて論じた書籍。企業救済の原理、徴兵制と志願制の軍隊、代理母の是非、歴史的事件に対する公的な謝罪など取り扱うテーマは様々。テーマを論じるにあたって、正義に対する三つの考え方ーー最大多数の最大幸福、選択の自由、美徳と共通善ーーを示し、サンデルは美徳と共通善を議論する社会の構築を説く。

哲学は役に立たない?

 この本を手に取ったのは大学生のころでした。当時、哲学専攻だった私、巷でこの本が話題になっていることが不思議でなりませんでした。

「哲学の本が売れてるの? 勉強して何の役に立つのさ?」

 哲学=実生活で役に立たない、という図式が完全に頭の中で出来上がっていました。これは私の個人的な見解ではなく、大学内では共通の認識でした。哲学専攻で大学院に進んだら、就職はあきらめろと言われるほどです。

 じゃあなんで哲学を専攻に選んだのかと言えば、哲学というものがなんとなく好きだったからで、役に立つ/立たないなんてどうでもよかったわけです。プラトン曰くイデアは~、デカルト曰く理性は~、と勉強しましたが、「君たちおもしろいこと考えるね~、何食べたらそんなこと考えつくの? 暇なんだなあ」ぐらいの温度感で受け止めておりました。

 哲学に対する見方を一変させてくれたのが、本書『これからの「正義」の話をしよう』でした。

 この本で取り上げられているテーマを一つも知らない、なんてことはないはず。例えば、妊娠の中絶。日本では制度上OKですから、妊娠中絶の是非を論じることはありませんが(心理的な抵抗はともかく)、ES細胞の話題が盛り上がったときに、「人はどの段階から人として認められるのか?」という論点が問題として挙げられていました。実証化に進むには避けて通れない議論です。

「ES細胞は使いたい人だけ使えばいいのでは? 抵抗があって、使いたくないという人は使わなければいいだけの話じゃないの? 使う本人の自由にさせておけばいいじゃん」

 ES細胞の問題点について耳にしたとき、私はこう考えました。これ以上何で議論する必要があるのか、とさえ考えました。

 ところがどっこい、サンデルはそんな私の浅はかな考えを一蹴します。

ES細胞研究容認論も、胎児はいつ人になるかという道徳的・宗教的論議における立場を明確にしなければならない。初期胚が道徳的に人と同等だとすれば、ES細胞研究反対論に分があることになる。たとえきわめて有望な医学研究であっても、人間を解体することは正当化できない。命を救うために五歳の子供から臓器を摘出するのが合法的だという人は、まずいないだろう。したがってES細胞研究容認論は、胎児がいつ人になるかという道徳的・宗教的議論において中立ではない。

『これからの正義の話をしよう』 p394

 使いたい人は勝手にどうぞ、とすると、「初期胚が人であったとしたとき、使いたい人は殺人に手を染めることになるが、よろしいか? いや、よろしくなかろう? なら、初期胚は人ではないという前提で話をしているね?」というのがサンデルの反論です。結局のところ、「人はどの段階から人なのか?」という問いに結論を出さない限り、ES細胞の是非を問うことはできません。

 この議論、実生活で役に立つでしょうか、立たないでしょうか? 役立ちますよね。

 哲学、役に立つんだぁ。

 当時大学生だった私は、非常に驚きました。哲学が議論や思考の道具として有用であることを初めて知りました。

正義の価値を決める三つの考え方

 上記の例のほかにも、様々な議題が本書では扱われています。アメリカ社会が念頭に置かれ、日本では馴染みがないものもありますが、それでも読む価値は十分にあります。

 例えば、同性婚の話題。日本でも数多くの自治体で、パートナーシップ宣誓制度が作られている段階まで進んでいます。今後、国の制度として認められる可能性も十二分にあるわけです。

 「結婚は男女がするもの」ときっぱりと否定する方もいれば、「多様な価値観を認めるべきだ」と賛成する人もいるでしょう。しかし、「私、関係ないし」「同性婚したい人はすればいいし、したくない人はしなければよいのでは?」とお思いの方は決して少なくないのではないでしょうか。かくいう私自身もそう考えておりました。

 が、その考え方はサンデルにばっさりと否定されています。

 本書では、正義の価値を決める考え方として三つの考え方を提示しています。

  1. 正義は効用や福祉を最大化すること(最大多数の最大幸福)
  2. 正義は選択の自由の尊重を意味する(リバタリアン、リベラルな平等主義者の見解)
  3. 正義は美徳を涵養すること、共通善について論理的に考えることを含む。

「したいひとはすればいいし、したくない人はしなければよい」という考え方は、2に当てはまりますが、サンデルはこれを否定します。

 正義にかなう社会を達成するためには、善き生の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはならない。

『これからの「正義」の話をしよう』 p407

 サンデルは3の考え方を支持しています。最大多数の最大幸福を求めるわけでもなく、選択の自由にすべてを委ねるわけでもなく、何が正しいのか皆が考え、議論の末に受容する社会が正義にかなうと説いているのです。

 いやいや、そんなもの夢物語だと反論することは可能でしょう。

  • 「声が大きい人が有利になるだけでは?」
  • 「議論なんてまとまらない、みんな考え方が違うんだから」
  • 「議論して決まったことだからと抑圧されるされる人も出てくるのでは?」

 無論、サンデルも実現の可能性の難しさを認めています。しかしそれでもなお、彼が理想とする社会の実現について、可能であると(控えめながらも)述べています。

自由は万能のツールではない

 今回、ブログに感想をあげるにあたって読み返しました。およそ十年越しの再読となるのですが、当時とは随分読み方が変わったなと感じました。

 様々な議題が本書では取り上げられていますが、そのことごとくに「本人の自由ならいいんじゃない?」と答えようとする自分がいることに気づきました。徴兵制or志願制にしたって、代理母にしたって、臓器の売買にしてもそうです。「私はやろうとは思わないけど、やりたい人はご自由に」と。

 自由の尊重、と言えば聞こえはいいです。でも、別の角度から見れば、これは議論の放棄ではないか? 自由の尊重ではなく、もはや自由の乱用と呼ぶべきではないか? 本書を読み進めるうちにそう考えるようになりました。

 自由、と簡単に口にしてしまうのは何故でしょうか? それは自由というツールを使えば、面倒な議論に足を踏み入れなくても済むからです。ある事柄が正しいか、間違っているか、頭と時間を使って考える必要性を省く便利な概念だからです。

 無論、選択の自由が非常に大事な概念であることは否定しません。長い歴史をかけて人類が勝ち取った重要な権利です。当たり前ですが、ないがしろにしてよいことではありません。ですが、自由を大事にしすぎて、必要以上に振りかざすのもまた、よいことであるとは言えないでしょう。

 サンデルが目指す社会の在り方が今必要とされている。

 実現できるかできないかはさておき、事実であると言ってよいでしょう。

総評:★4 テーマに基づいて議論が深められる形式なので、哲学の本と聞いて身構える必要はない。全体的に読み進めやすく、とっつきやすい。様々な価値観を持つ人々が共生する社会において、議論を深め、相互理解と連帯を育む重要性を訴えた本書は、誰にとっても読むべき価値がある。

続編について

 文庫版には、巻末付録として次回作『それをお金で買いますか』の序章が付け加えられております。『これからの「正義」の話をしよう』でも、市場の道徳的限界について論じられていますが、よりフォーカスした内容です。

 市場でなんでも取引してよいのか? 市場に何の制限をかけなくてもよいのか?

 例えば、行列に割り込む権利、成績不良児が本を読めば報奨金がもらえる、移民の権利、病人や高齢者の保険料を払う代わりに彼らが死んだときに受け取れる生命保険。

 一つ一つの例を論じる中で、サンデルは行き過ぎた市場主義に警鐘を鳴らし、その問題点を浮かび上がらせます。『これからの「正義」の話をしよう』を読んだ読者には、ぜひとも次回作を読んでみてほしいです。

プロフィール
よまず
yomazu

読書歴10年。大学時代まで全く本を読まない人生を送っておりましたが、文芸部に入部して小説を読んで批評したり、書いたりしているうちに読む習慣がついてしまいました。
一応好物は童話、ファンタジー系ですが、ビジネス書から小説まで読まず嫌いせずに読んでいきます。
現在仕事を辞めて、まったり専業主婦ライフ中。

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